2026年、北斗の拳が40周年ということでついにっ再びアニメに!
「おおっ!!」とテンションが上がりましたが、よく考えてみるとアニメで見ていたのは小学生の頃だったので、「アタタタタっ」「お前はもう死んでいる」というセリフと、ケンシロウの強さにばかり目がいっていました。
しかし大人になってみると、また見方に変化があるはず。

そんな時はAmazonプライム。
荒れた世の中を、圧倒的強さと恐怖で治めるのが、愛を持って治めるのかという現代でも答えの出ないテーマ。
宿命を背負って生まれた者の信念。
愛のために強くもなるが、愛のために非情な鬼ともなる人間の心。
正義を貫いて死んでいくものと、おかしいと思いながら自分を守るために見て見ぬふりをする者。
その物語の各エピソードの中でいろいろな事を考えさせられます。
敵役も、愛に裏切られて悪となるものも多い。
シンも、ただただユリアの愛が欲しかったのです。
サウザーだって悲しい生い立ちから救ってくれた師匠との悲しすぎる別れがなければああならなかった。
これは鬼滅の刃にも通じています。猗窩座だって、鬼にならなくても良かったはずなんだと。
北斗神拳は「怒り」「愛」「哀しみ」を知ることで、その拳を極めることができるというのも、大人になった今では、袴田さんの冤罪事件で弟のために戦い続けたお姉さんの姿や、拉致被害者の会で肉親のために戦い続ける方々の姿などをみると、本当にその通りだと思うのです。名古屋の未解決事件であった犯人が検挙された事も記憶に新しい。
それが愛なのか、憎しみなのか、どのような想いであるかは察しきれるものではないが、常軌を逸した想いである事は確かです。極真の鬼とうたわれた黒崎健時師範は、このような想いを【情念】と、著書の中で表現されておりました。

ふと思い出しました。昔々、「ウインドウズ98」だったと思いますがタイピング練習ソフトて、「北斗の拳」をやりました。出てきた文字を打ち込むと「アタッアタッアタタタタッ」と声がして敵を倒していくというもの。
あれから30年近く経ちました。
自分はどれだけ成長できたでしょうか?

「我が生涯に一片の悔いなし!!」と叫ぶことのできる人生を送っていけるよう、日比之新を旨として頑張りたい。
北斗の拳を鑑賞しながら、そんな事を考えた中秋でした。



